「聖幕」3 神様が現れるには

3 神様が現れるには

神様の姿を現す聖幕

神は霊なので体を持っておられない。霊である神様が物質世界を創造して人間を作った。神がエデンを造った後「神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」

(創世記1章26節)

と言われ神様の似姿通りに人を作った。

神は物質世界を作った後、物質世界の中に霊である神を示すために人を作った。人に神様の姿を入れてくださり、人を通じて神様を現すことを望まれた。そして神様が自ら治めるべき海の魚と空中の鳥と家畜と全地を這う全てを治める権勢を人に与えた。

アダムは神の形通りに作られたので、アダムに統治されるのは、すなわち神に統治されることだった。また万物が神様を見たい時、アダムを通じて神を発見し、神を知ることができた。神はそのようにアダムを通して彼の意思を伝えることを望まれたが、アダムが罪を犯したことによってアダムの中にあった神の姿は破壊されて死んだ。

その後、神様はご自分のしもべたちを通して神様の御心と愛を示した。そしてイスラエルの民がエジプトを脱出した後は、幕屋の中に住みながら幕屋を通して自分を現すことを望んだ。神は幕屋を通じてご自身の神聖さと義と善い御心を示したので、イスラエルの民は神の御心を知るために幕屋に近づかなければならなかった。

人間の中に建てた幕屋を離れ

エジプトから出たイスラエルの民がカナンに入った後は、シロに会幕を建て、そこに幕屋の器具を置いて神が住まわせた。ところがシロの会幕でエリ祭司の二人の息子ホフニとピネハスが罪を犯して悪を行った。神様がエリに何度も警告されたが、ホフニとピネハスが犯罪を止めず、結局神様はシロの会幕から離れた。詩篇78篇59~60節を見ると、「神は、聞いて激しく怒り、イスラエルを全く捨てられた。

それで、シロの御住まい、人々の中にお建てになったその幕屋を見放し、」

(詩篇78篇59~60節)

と記録されている。神が人間たちの中に建てられていた実に会幕を離れたのは彼らの犯罪によるものだった。

神は人間の中で住む居場所なしで過ごして、ご自身が住む居所として聖殿を建てることを望んだ。ところが、士師時代にはイスラエルの民がずっと罪を犯して混乱の中にいたので、長い間聖殿が建てられてられなかった。その後、ダビデの時代に至ってイスラエルが統一され、ダビデの息子ソロモンを通じてエルサレムに聖殿が建てられた。その後、神は聖殿を通じて再びご自身を現し、イスラエルの民が聖殿に上がってきて祈る声を聞いて応答した。ところがイスラエルの民が罪を犯したことによって神はそこからも去られ、結局聖殿は崩れてしまった。

もはや神は建築物ではなく、ご自身の息子イエス・キリストを人間の体を着せてこの地に遣わすことで、その体を通してご自身を現すことを望んだ。イエス・キリストは言葉が肉体となって人間の中に住んだ神の姿で、神はイエス・キリストを通してご自身の仕事を行なった。コリント人への手紙第一に記録されているように、イエス・キリストは神の神聖さと義と贖いが完全に備わっている方だった。

イエス・キリストはこの地上におられ、その当時の書記官とパリサイ人を扱うたびに、常に神の完全な意志を示した。書記官たちとパリサイ人たちはそのイエスと合わなかった。それで彼らはイエスを妬んで敵対したが、それはまさに神に敵対したものだった。

イエス・キリストの体を通して

イエスがある時律法学者とパリサイ人に「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」

(ヨハネの福音書2章19節)

とおっしゃった。イエスの体が神が住む聖殿だったので、イエスの言葉はイスラエルの民がイエスを十字架に釘付けにして殺すが、三日で再び復活されることをおっしゃったことだった。しかし彼らはその言葉を理解できなかったので46年間で建てたこの聖殿をあなたが三日で建てるのか?と反論した。

イエスがこの世にいらっしゃる間、神はイエスを通して病人を治し、哀れな者を憐れみ、慈悲を施し、人間を救うことを成し遂げた。イエスはこの世にいらっしゃる時、自分の思い通りに生きたのではなく、いつも神様の御心に従って生きた。最後に十字架に釘付けにされて死ぬ時も「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

(マタイの福音書26章39節)

と祈った。イエス様がこの地上に来て33年間おられ、十字架に釘付けにされて死んで復活・昇天された後、それからは神様は誰を通してご自身を現すのか?この地に美しい山川があり、多くの人が住んでいるが、神様の御心が現れないなら何の意味もない。神様はイエスが昇天された後、イエス・キリストによって聖さを受けた聖徒たちを通して現れることを望んでおられる。

「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」

(ヨハネの福音書16章7節)

この言葉は、イエスが去られたことによって、イエスの中におられた聖霊が私たちに臨み、イエスを通して現れた神が私たちを通して同じように現れるということだ。イエスは完全で生まれた時から聖霊で受胎して聖なる方だが、私たちは醜くて汚くて肉的なのに、どうやって私たちを通して神様が現れることができるのか?神様が私たちを通してご自身を現すには、まず神様の霊が私たちの中に住まなければならない。旧約時代にイスラエルの民が聖幕を作った理由は、神は罪の中に住めない聖なる方だからだった。神様が聖幕の中に住まわれたように、私たちの中にも住まわれるには、私たちの心の中に罪が爪ほどもあってはならない。

永遠の贖罪を成し遂げなければ

神様が人間を見る時、

「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」

(ローマ人への手紙3章12節)

とおっしゃった。イエスも自らこの地に来て、人間の心を見て「心から出るものは、悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしり」

(マタイの福音書15章18~19節)

とおっしゃった。

このように私たちの心は邪悪で汚いだけで善いものが一つもないから、邪悪で汚れたものをすべて洗って清めてこそ神の聖霊が宿ることができ、私たちを通して神が現れることができるのだ。

イスラエルの民が荒野で幕屋を建てた時、荒野には多くの罪悪があったが、幕屋の中には爪ほどの罪も許されなかった。アロンの二人の息子ナダブとアビフが過ちを犯して彼らが幕屋の中で殺された事実を私たちは知っている。神様は聖なる方なので、聖幕の中に不義が入ってくるのを許せなかったのだ。もし不義が入ってきたら神様は去るしかない。アダムから、幕屋で、そしてエルサレムの聖殿から神は去らなければならなかった。しかし神様がイエス様の中におられる間は満足した。

イエスを通して現れた神が人間を通して現れるために、イエスが十字架に釘付けにされて死んで私たちの罪を雪のようにきれいに洗った。イエスが十字架に釘付けにされ、ある部分の罪だけを赦したなら、神様は私たちの中に住めない。もし過去の罪だけ赦されたなら、私たちが罪を犯した瞬間、神様は私たちを離れるしかない。イエスが「父が助け主聖霊を遣わして、あなたがたと永遠に共に住む」と約束された通り、神が私たちの中に永遠に住まうために永遠の贖罪を成し遂げなければならなかったのだ。ヘブル人への手紙10章14節を見ると、イエス・キリストが十字架で死んだことについて「

キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」と言っている。ヘブル人への手紙9章12節には「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」

と記録している。

私たちは醜くて不義な罪を犯したりもするが、イエス・キリストの贖いはある罪に限定されたものではなく、永遠のものなので、神が見る時、私たちの中で罪を全く発見できない。これは私たちが罪人なのに神様が義に見てくださるのではなく、イエス・キリストが十字架で流した宝の血が私たちの罪を清めたということだ。

ダニエル書9章24節でダニエルはこう預言した。

「あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。」

ここで極めて聖なる者はイエス・キリストを指し、キリストによって過ちが終わり、罪が終わり、罪悪が永遠に属される(?)ことで永遠の義として明らかにされるため、神が私たちの中に宿るので不足がないということだ。ところで私たちがイエス・キリストの宝の血を見ずに神の行為を見ていると心が罪に押されて生きるようになり、神は私たちの中で自由に働いていられなくなる。

聖徒たちの模型

信仰は神と心を共にすることだ。イエスが十字架で死んだことで私たちの罪がなくなったので、神は私たちを「義、聖なる、罪がない」とおっしゃっているが、私たちの心と神の心が一致しなければ、神の言葉を信仰として受け入れることができない。

したがって、私たちは私たちの行為から離れて神を見つめなければならない。

使徒パウロやペテロも肉体的に多くの過ちを持っていた。

しかし神様は彼らの中に住んでおられるので不便がなかった。神様が彼らの行為を見ず、イエス・キリストの宝の血を見たからだ。だから神様は使徒パウロやペテロを通して現れることができた。聖なるイエスがこの地におられる時、神が彼を通してご自身を現されたのと同じように、パウロやペテロを通して現れ、また私たちを通して現されるのだ。

神が私たちを通して現れるためにイエス・キリストの宝の血で私たちを完全で義で聖なるものにされたので、幕屋はイエス・キリストの模型であるだけでなく、聖徒の模型であり、教会の模型でもある。

\ 最新情報をチェック /