「聖幕」1  キリストの驚くべき模型

1  キリストの驚くべき模型

イエスを深く理解できるようにしてくれた聖幕

イエス・キリストを受容し、主と親しく付き合いながら主を知るのに聖幕ほど多くの助けを与えたことはなかった。私が聖幕を通じてイエス・キリストの姿を発見し、キリストの働きを味わったように、読者もこの文章を通じて一人一人主を深く知り、主の恵みを受けることを願う気持ちがある。

しかし「この聖幕はあまりにも深くてすごいキリストの姿なのに、その尊いキリストの姿をどうやって全部表現できるだろうか?私が聖書の中で聖幕に関する文章を読み、悟り、理解する部分は神様が示そうとする領域の万分の一にもならないだろうに、私の文章があまりにも足りないんじゃないかな?という心配になる気持ちがある。

旧約の出エジプト記はイスラエルの民がエジプトから出た過程を記録した文だが、神は25章から40章まで出エジプト記のほぼ半分近くを幕屋について記録させた。

昔のイスラエルの民がエジプト王ファラオの権勢の下で生きた人生は、ファラオのために国の城と〜ラームセト(意味不明)〜を築くことで苦しい生活の連連続だった。そうやって暮らしていたイスラエルの民が神様の力でファラオの権勢から離れてエジプトから出てきた。イスラエルの民60万人余りがエジプトから出てきた場面は、一人一人が罪の鎖から抜け出す姿を見せてくれる。私たちが子羊になったイエス・キリストの宝血で贖われるまでは、目に見えない邪悪な勢力であるサタンのために絶え間なく国の城を築きながら生きてきたのだ。人々は自分なりの趣味と適性を持って社会に奉仕すると言うかもしれないが、イエスがいない人々の人生は不従順の息子を真ん中で働く霊にだまされており、結果的には魂を地獄に追い込むサタンの計画の下で生きているのだ。

イエス・キリストの影である幕屋

出エジプト記は前半にイスラエルの民がどうやってエジプトから出てきたのかを詳細に説明している。後半には律法が伝わってくる話に続いて、すぐに聖幕についての話が25章から始まり完成することで終わる。

イエス様はヨハネ福音書5章39節で「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」とおっしゃった。ここで言う聖書は旧約聖書として、旧約聖書は様々な部分でイエスを表している。その中で幕屋は最も明確で詳細にイエスを示す絵だ。

幕屋は様々な深い秘密を教えてくれるが、今日の人々は幕屋の長さが数キュビト、広が数キュビトなどの複雑なものしか知らないので、あまり興味を感じていない。そのように私たちの肉体の目で見ると、幕屋があまり興味がないが、心を低くして謙虚な心で聖書を調べていくと、イエス様の姿を深く発見し、魅力を感じるようになる。

イエス様を愛して仕えるというが、イエス様の本当の姿を知らない人が多い。2千年前にイエスがユダヤの地に来た時、当時の宗教者たちはイエスがメシアであることを知らずにイエスを十字架に釘付けにした。書記官・律法者・パリサイ人たちが聖書はたくさん知っていたが、聖書の中に隠れているイエス・キリストの本当の姿は知らなかったのだ。

最近私は水原刑務所で聖書の勉強を導いているが、そこには聖書をたくさん読んだ人が多い。ある人は新約聖書を全部覚えると言った。「どうやって新約聖書を全部覚えられるだろうか?」とびっくりした。それで聖書の勉強時間に「新約を全部覚える人は手を挙げてみて」と言うと二人が手を挙げた。そのうちの一人に聖書の一節を読んであげた後、次の一節を暗記してみるように言うと、口ごもったが暗記するのを見ることができた。その人は新約聖書を全部暗記したが、聖書の中に隠されたイエス、そのキリストの真の秘密を知らなかったので、それまでその心が罪の中にとどまり、イエス・キリストに近づけなかった。

イエス·キリストを見る目

聖書はイエス·キリストについて記録しているが、聖書を見てもその中に隠された神様の心を知らないなら殻で知っているのであって、何の意味がない。イエス当時に聖書を知っていたユダヤ人たちは、神様の御心に従って人の姿を着て来られたイエスを前にしてもイエスを知らなかった。彼らが聖書は知っていたが、その中で楽しんでいたイエスを話せなかったからだ。旧約聖書の中にあるイエス・キリストを入れることができる目があれば、彼らの中で働いておられるイエスがまさに旧約聖書に示されたキリストと同じ方だと知っていただろうし、サマリアの女が「この方がメシア」と言ったようにそう言うことができただろう。

2千年前に主が来られた時のように今日もほとんどの人々が自分の心の中に自分なりに高貴で慈しみ深いイエス・キリストの像(1分)を描いておいて信仰生活をする。問題は、そうやって描いたイエスの姿が聖書で言うイエスの姿とどれだけ違うか分からないということだ。

私は時々こんなことを考えてみる。もし、今日イエス様が2千年前のようにソウルに来てどの教会に入るなら、その教会の牧師さんと教会人たちがイエス様を認識できるだろうかということだ。時々私に「どの教団に属していたのか?」、「どの神学校を出たのか?」と聞く人たちがいる。彼らには真の神のしもべを見つける方法がどの教団に属していたのか?私、どの神学校を出たの?という外見的なもの以外には、他に分別する目がないからだ。

もしそのような基準を持ってイエスを見たら間違いなくイエスはこの時代の教会から異端という扱いを受けるしかないだろう。イエス様はどの教団にも属していないし、また神学校も出なかった。ただ神様に属する方なので、イエス様はソウル市内のどの教会に行っても、神様のしもべとして御言葉を伝えたいと思うだろう。その時、人々がイエスを見ることができる目がなければ、イエスを追い出してしまうだろう。

どの神学校を出て、どの教団に所属し、どのボランティア団体で働くかなどの外見的なこと以外に他のものを見る目がなければ、イエス・キリストを発見できない。また心の世界を見る目がないなら、イエス様がこの時代に来られたとしても人々が排斥してしまうだろう。今日の人々は聖書でどのように話したのか?には構わず、自分たちの考えと合わないと異端だと判断してしまう。

イエスの外見である手の釘の跡や脇腹の腸の跡を見なくても、私の心に臨まれたイエス、私の罪を赦して私を導いてくださるイエス、聖書が語るイエスを見ることができなければならない。

130億ウォン相当の金

幕屋に関する聖書の言葉を読んでみると、幕屋の外見的には何も憧れるものがない。砂漠にある聖幕はとても長くて高い白い亜麻布に囲まれていて何の魅力もないように見える。しかし、聖幕の中の聖所と至聖所に入ると四方が金で囲まれている。出エジプト記38章24節を見ると、聖所を建築するのに入った金が29タラント730シェケルだ。これをkg単位に換算すると1タラントが約34.717kgなので1000kg、つまり1トンになる。これを金に換算すると、金一銭に5万ウォンという時、約130億ウォンに達する金が聖幕に入っているのだ。膨大な量の貴重な金が憧れるもののない亜麻布に囲まれているということだ。まさにイエス様がそうである。

世の中の人々は心が空っぽなので、外見的なものを備えようとたくさん苦労するが、イエスは外見的には世界で認められるようなものを何も持っていなかった。イザヤはイエスを紹介すると、

「彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。(イザヤ書 53章2節)

と言った。幕屋が外見的には憧れるものがないが、その中に入ると輝かしい金で覆われているように、イエス・キリストは外見は見るものではないが、その中には世の中のどんなものとも交換できない貴重なものを持っている方である。

イエスの尊さを味わっていない人々は、イエスに自分の若さや所有物を捧げようとする時、イエスによって迫害や苦難を受けることになる時、心に負担が生じるものだ。

イエス様の外見

イエス様の姿を描いて売っている絵が多いが、その絵を見ると絵ごとにイエス様の姿が少しずつ違う。実際のイエスの顔ではなく、画家たちがイエスを慕う気持ちで描いたものだからだ。

ところがイエスは絵のようにそんなに慈しみ深く、厳粛でハンサムな方ではないと聖書は言っている。イエスが尊くて美しいということは、イエスの中にある心がそうだということだ。

今日の人々は本当のイエスではなく、自分の好きな姿を想像して描いておいて、それをイエスとして仕えている。真のイエスは大抵の人々が考えるイエスとは全く違う。聖書66巻にはイエスに関する文章が多く記録されているが、驚くべきことはイエス・キリストの外見についてはほとんど語っていないということだ。イエスの背が高いか小さいか、イエスの顔の形がどうなのか、髪の毛はどうなのか•・、そのようなことは全く言及されていない。

聖書はイエスを示す時、イエスの内、つまり心を紹介したかったが、イエスの外の姿を示すことを望まなかったことが分かる。ところが今日の人々はイエス・キリストの内面については関心がなく、外見についてだけ関心が多い。それは人々が肉に属して霊的に暗くなっているからだ。霊的な世界を見ることができない人々は、イエス様の外見的な部分、つまりすべての人々が良いと思う善良で真実で長く我慢して愛が多い姿だけを考える。

これからは幕屋を通じて隠されているイエス・キリストを発見し、彼によって残りの人生が祝福され、神霊になることを願う。

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