「聖幕」4 罪から解放されたのか?

4 罪から解放されたのか?
律法と共に与えられた幕屋
幕屋に関する言葉が出エジプト記25章から40章の間に出てくるが、出エジプト記はイスラエルの民がエジプトから出てくることで始まり、幕屋が完成されることで終わる。
イスラエルの民がエジプトから出る時、ファラオが素直に送り出そうとしなかったため、モーセとファラオの間に多くの葛藤があった。ファラオが心を折らず、神がエジプトに多くの災いを下し、結局その心を折ってイスラエルの民を送ることになったのだ。この話は、私たちが罪深い世の中でサタンの権勢から抜け出す過程を語っているが、サタンは思い通りに私たちをただ送り出さないという事実を示している。サタンは私たちがただ教会に出て、祈り、教会員になることにはあまり関心がないが、その段階を過ぎて私たちのすべての罪を赦され、サタンの権勢から離れて神の子の国に移される時には強力に防ぐ。
出エジプト記を読んでみると、イスラエルの民がエジプト王の下で奴隷生活をしている時、苦痛に耐えられずに叫ぶ音が天に響き渡ったという。それで神様がモーセを遣わしてイスラエルの民をファラオの手から救い出そうとすると多くの問題が起きた。イスラエルの民が「私たちを放っておけ、エジプトの奴隷生活も大丈夫だ」と言いながら自らエジプトから出るのを諦めるほどサタンは彼らを簡単に出さなかった。
今日も罪の赦しを受けることを切望して罪の赦しを受けられる位置まで来たが、突然家族から迫害が来るとか、あるいは心に恐怖が生まれて自ら諦めて形式的な教会員になって主とは関係ない人生を生きている人が多い。神は出エジプト記を通じて罪悪の束縛から、サタンの勢力から抜け出すのがどれほど難しいことであり、またこのことはイスラエルの民の努力でできるのではなく、神がイスラエルの民の側に立ってサタンの勢力であるエジプトの王と戦って成されたものであることを示しておられる。
イスラエルの民がエジプトから出て紅海を渡って荒野生活が始まった時、モーセの義父がモーセが家に置いてきた妻チッポラと二人の息子を連れて訪ねてきた。その時、モーセは早朝から夜遅くまでイスラエルの民を裁いていたが、それは彼らが罪を犯したという事実を示している。その後19章でモーセがイスラエルの民に神の律法について話したが、イスラエルの民が律法をすべて守ると答え、神はモーセを通じてシナイ山で律法を与えた。幕屋はイスラエルの民が荒野に滞在する間、神に仕えられるようにするために律法の後にすぐついてきた、天幕で作られた神の聖殿だ。まさにイエス・キリストの模型であり、教会の影だ。
罪を悟る
出エジプト記25章から40章まで幕屋に関する話を読むと、25章から35章までは神がシナイ山の上でモーセにイスラエル人の手を命じて幕屋を作ることを語る。36章から最後の章までも同じ幕屋の話が繰り返し出てくるが、神様がおっしゃった通りに幕屋を作ったという話だ。40章では聖幕を建てることを話している。同じ聖幕の話だが、前の部分には作れというこの物語が出て、後ろの部分には作ったという話が出てくるのだ。
創世記1章を見るとそのままになる。「神様がおっしゃったとおりになる。」という話が何度も出てくる。神様がおっしゃった通りになったので続けて「神様から見てよかった。」とおっしゃった。幕屋もまた神様がおっしゃった通りに建てられたので、神様が幕屋によってイスラエルの民を祝福された。
幕屋についての話が同じ内容で2回出てきたのは、神がおっしゃったとおりになったということ以外にもう一つの意味がある。イスラエルの民がエジプトに滞在している間は幕屋が必要ではなかった。彼らがエジプトから出て荒野で過ごしている間に律法が下ってきたが、律法はこのイスラエルの民に罪を悟らせるために神が与えたものだった。
律法をよく守れば義となると知り、多くの人が律法を守ろうと努力しているが、神が人間に律法を与えた目的は律法をよく守って神の前に素直に近づくことができるようにするためのものではない。律法によって罪を悟り、イエス・キリストの宝血の前に出て罪を洗われるようにするためだ。
新約時代に生きている私たちは律法を通じて罪を悟り、罪の中で悩んでイエス・キリストの前に出て罪を赦される。ところがエジプトから出たイスラエルの民は律法のない生活を送っていて、律法が下るやいなや金の子牛を作ったことで、すぐに律法を破ることになる。律法を破って罪を犯した彼らは神様の前に大胆に進むことができなかった。そのように罪を犯した人間が神様の前に出られる道を開いてあげるために神様は聖幕を作るように言われたのだ。
律法がなければイスラエルの民は罪を悟ることができず、罪を悟らなければ神の前に大した負担なくやって来ることができる。しかし律法が彼らの罪を悟らせれば、その状態では進むことができず、明らかに罪を洗い流さなければならないので、幕屋を通じて神の前に進むしかない。律法があれば必ず聖幕がなければならないのだ。この事実は、律法によって罪を悟った人は、必ずイエス・キリストを通してのみ神の前に来ることができることを示している。
いつ罪に縛られるのか?
ローマ書は「罪が律法がない時も世にあったが、律法がない時は罪を罪とみなさなかった」と記録している。律法がない時には、イスラエルの民の誰も罪のために恐れたり、神を避ける理由がなかった。ところが律法が来て彼らの罪を指摘してあげると、罪を解決しなければ神の前に進むことができず、彼らは聖幕を通じて罪を解決して神様の前に進んだのだ。
私たちは創世記でアダムとエバが善悪の果実を食べた後、どうやったか知っている。彼らが善悪の果実を摘んだ後、イチジクの葉で覆いを作って着て園の木の間に隠れたのは、彼らが脱いだからではなかった。彼らは以前にも裸で暮らしていたが、裸になったことを全く変に感じなかった。ところが善悪の果実を食べた後、目が明るくなって自分たちが脱いでいることに気づいたのだ。前から裸で暮らしていたが、その時は何事もなかったが、善悪の果実を食べて自分たちの姿を見る目が開いたのだ。最初はアダムとエバが神の前に出たり、神が彼らを見た時、まるで牛や豚が脱いでいるが全く恥ずかしさを感じないのと同じだったということだ。ところが、善悪の果実を食べたことで脱いだのを発見すると、恥ずかしさを感じて恐怖が訪れたのだ。このように人間は罪を犯して神を離れるのではない。犯罪した事実を悟ることで神を離れたり隠れたりして、負担を感じるようになるのだ。一旦罪を悟れば、罪を完璧に解決する前には、誰も神の前に進むことができない。
レビ記4章でイスラエルの民がささげる贖罪の祭祀に関する言葉を読んでみると、全会衆や族長や庶民が罪を犯した時、どのように贖罪の祭祀をささげたかが分かる。レビ記4章27~28節を見ると、
「また、もし一般の人々のひとりが、主がするなと命じたことの一つでも行い、あやまって罪を犯し、後で咎を覚える場合、
または、彼が犯した罪が自分に知らされたなら、彼は犯した罪のために、そのささげ物として、傷のない雌やぎを連れて来て、」と書いてある。贖罪の祭祀は罪を犯したからではなく罪に対する悟りを受けたから差し上げるのだ。罪を犯してもその罪について悟りを受けていない人は贖罪祭をささげられない。贖罪の祭祀は、犯した罪に気づいた時、罪に対する咎めと恐れで神の前に進むことができないので、祭祀を捧げることで心が罪から抜け出して神の前に大胆に進むことができるようにするためにくださったのだ。
私たちが罪を犯した後、罪に気づくことと気づかないことにはすごい違いがある。罪を犯しても罪に気づかないなら、その罪は赦されないのだ。罪に気づいていない人は、神の前に進むのに負担がないので問題にならない。しかしいつかはその罪が明らかになることによって神様の前に恐れを持つようになるのだ。
善と悪を知った人間
罪を犯すと罪を犯した人になるが、罪に気づくまでは心が全く罪に縛られたり押されたりしない。私たちの心が罪に縛られて押されるのは罪を犯す時ではなく、犯した罪に気づく瞬間からだ。その時から私たちは罪に従属し、良心の呵責を受ける。アダムとエバが善悪の果実を食べて恐れて園の木の間に隠れた時、神は彼らを見て脱いだという事実を指摘しなかった。彼らが善悪の果実を食べる前も脱いでいたが、神様はその事実を全く言及しなかった。善悪の果実を食べた後、神様が指摘もしなかったが、彼らは自ら恐れて恥ずかしかった。
神様が彼らのために革の服を作って着せたのは、彼らが寒かったり見たくなかったからではなく、彼らが脱いだことを悟りによって神様の前に近づいてくるのを恐れていたからだ。そうして創世記で最初の死があったが、アダムとエバに皮を提供するために一匹の獣が死んだのだ。その獣の死はアダムとエバの罪による恐怖と恥を隠してくれた。アダムとエバは革の服を着たので、神様の前に大胆に進むことができた。
もし彼らが善悪の果実を食べても裸になったことに気づかず、全く恐れたり恥ずかしがらなかったら、神は彼らのために革の服を作って着るために獣を捕まえる必要はなかっただろう。善悪の果実を食べた時、善と悪を知ることによって罪を悟り、その罪が心に呵責を与え、神の前に進む大胆さを失わせ、神と塀を築かせるのだ。もちろんイエスの血で私たちの罪を洗い流さなければならないが、別の面で考えてみると、私たちの心が罪による恐怖と咎めから抜け出して、ただ神の前に大胆に進むことができるのだ。
鶏や犬や猫のような獣たちは善悪の果実を食べなかったため、肝を害したり盗んだりしたからといって負担を負わない。犬が姦淫した後、良心に責められて自殺したとか、鶏が隣の家の食べ物をこっそり食べて怖がって震えているという話は聞けない。獣たちは罪を犯しても、罪を犯したことに気づかないので、その罪によって苦しんでいるのを見ることができない。人間も善悪の果実を食べなかったら罪に気づかないから心が罪に縛られず、恐れずに神様の前に大胆に進むことができる。
今日、人々が神に進むために体は教会に行くが、心には罪があり、神との間にいつも罪の壁が塞がれていることを見ることができる。神様は私たちが教会に出て祈ることを望んでいるのではなく、私たちの心の中にある罪が雪よりもっと白く洗われて神様の前に気軽に来られることを望んでいる。
律法と幕屋
人々が見るにはある程度善良な人生を生きることが信仰生活ではない。善の基準が人によって違うため、人々が見る時、どれだけ善良かというのが神様の前に進む上で何の尺度にもなれない。私たちが神様の前に大胆に進もうとすると、私たちの心に爪ほどの暗さがあってはならない。心の罪が雪よりもっと白く洗われなければいけないのだ。そうでない人は神と心の交わりを持つことができず、イエス・キリストを受け入れることができない。
神様がその息子をこの世に遣わされた理由は、私たちの罪を洗ってくださるだけでなく、私たちの心を罪から解放してくださることを望んでいるからだ。この文章を読んでいる読者の皆さんに聞きたい。皆さんは「私の罪が雪のように白く洗われて今死んでも何の躊躇もなく神の前に進むことができる」と言うほど心が罪から解放されたのか?そうなってこそ、神様が私たちのためにイエス・キリストを遣わされた御心が叶うのだ。神様がイエス・キリストを世に遣わして十字架に釘付けにされて死なせたのは、私たちの良心の呵責を少し軽くしてくださるためではない。私たちが犯罪を犯す前と同じように全く遠慮なく明るい気持ちで神様の前に来させるためだ。神様は私たちを愛しておられるので、私たちと神様との間に障壁があるのに耐えられないとおっしゃる。ローマ書3章23節では「すべての人が罪を犯した」と言っている。全ての人が罪を犯したが、罪を悟らなければ、神様の前に出るのに問題にならない。そう、律法が来て罪を悟らせると、必ずその罪を解決する恵みが続くべきだ。
出エジプト記に聖幕に関する話が2回出てくるのは、人間に罪を悟らせるために律法が2回下ってきたからだ。律法がモーセによって初めてこの地に降りてきた時、イスラエルの民が罪を犯したため、モーセが石板を壊してしまった。それで神様はモーセを通してすべての律法をくださった。律法が二度下ってきたため、私たちの罪を償い、神の前に進むことができる道を開く聖幕に関する話も二度記録されなければならなかったのだ。出エジプト記に同じ話を2回記録することで、律法に縛られている私たちが律法から解放される道を開いてほしいという神様の心をもっとよく知ることができる。
幕屋が建てられた真の目的は律法によって罪のために苦しむ私たちを罪から救い出すためだ。旧約時代の幕屋は、罪人たちがどうやって罪を洗うのかを教えてくれる。このようにイエス・キリストは罪のせいで神の前に大胆に進めない人々の罪を洗ってくださる神の力だ。