パクオクス牧師 新刊書 ヨハネの福音書講解 2 世の罪を取り除く神の小羊

パクオクス牧師が新刊書を出版しました。タイトルは「ヨハネの福音書講解1」です。この著書の内容はアメリカ最大のキリスト教放送局CTNで放映された内容に基づいています。

アメリカ人が感動し、CTN創設者が絶賛したパクオクス牧師の<ヨハネ福音講解>

 「福音が死んでいくアメリカに牧師のような方が必ず必要です。 アメリカの5千5百万の家庭に衛星放送を通して全世界の75%の人々が牧師の御言葉を聞くことができます。牧師が学んだ知恵と神様が許してくださった約束に対する悟りを全部分けることはできませんが、私たちは今、義人として罪から解放されました。 

ポロダート、CTN 'Contenting for the Faith'の進行役

 「牧師をお迎えすることができてありがとうございます。牧師のようにみことばを伝える人はいません。今日のための御言葉です。神様は牧師を用いられておられます。」

ロバートアンドレア、CTN創設者兼会長

下の写真は出版記念会と著書。そしてアメリカのCTN放送局で創設者と責任者と会った時の写真です。
CTNとはChristian Television Network, Inc.,のことです。サイトはこちらです。

パクオクス牧師は他にも多くの著書を書かれていますが、その多くは韓国語や英語です。日本語に翻訳された著書もありますが多くはありません。それで不足ではありますが、早く日本語で読みたい方(私もその一人です)のためにこのブログに日本語翻訳を載せることにしました。

翻訳にあたってはGoogleの自動翻訳を使いました。細かいところでは誤りがあるかもしれませんのでご承知おきください。また、この本の日本語翻訳については特に了解を得ていませんが、神様の恵みで最後のページまで翻訳したいと思います。

The Gospel of John ヨハネの福音書

ヨハネの福音講解1

2 世の罪を取り除く神の小羊

○聖書では私の罪がきよめられたという話をしている

○レビ記4章27節から出てくる一般の人の贖罪の祭祀

○見よ、世の罪を取り除く神の小羊

○エホバは私たちの罪悪を彼に負わせられた

私たちは聖書で驚くべき神様の秘密を見つけています。金鉱に行けば石の中に金が混ざっているように、聖書は金鉱と同じです。御言葉の中には、金よりも貴重な宝の言葉が本当にたくさんあります。

聖書では私の罪がきよめられたという話をしている

ヨハネの福音書1章29節を見るとバプテスマのヨハネがイエス様を見てこのように言われた。

「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」

 バプテスマのヨハネは、自分がイエスに洗礼を施したとき、天から聖霊が鳩のようにイエスに臨むのを見ました。 それで、イエス様が聖霊で洗礼をくださる方だとわかったと言います。

 私は長い間教会に通って、イエスは私の罪のために十字架につけられて死んだと言いましたが、罪に縛られて生きていました。 賛美は「嬉しい日嬉しい日主が私の罪をすべて洗った日」と歌ったが、心では罪が洗われず依然として罪人であった,。 目が隠されて聖書を正しく見ることができませんでした。 そのように過ごすある日、私のすべての罪が洗われたという言葉を見ました。 私はその言葉をただ信じました。 それ以外何もしたことはありません。

 御言葉は私の考えとは非常に違っていました。 私は悪いことをたくさんして毎日罪を犯したので、私が罪人だと思いました。 それについては全く疑わなかった。 ところが聖書は私の罪が洗われたと話していました。 私が自分自身を見ると罪人でした。 毎日盗んで嘘をついて、とても悪い人でした。 ところが聖書は私を見て義だと言いました。 それでは、私の考えは正しいですか、聖書の言葉は正しいですか? 聖書が正しいです。 聖書が私に義であると言えば、私は義です。 イエス様が私の罪を洗ったと言えば、私の罪は洗われました。

この言葉を信じた後、私の人生は変わり始めました。 私がはっきりと感じることができたのは、聖霊が私の中で働くことでした。 私が変わったことを最初に感じたのは私の父でした。 父は私が変わったことを一目で分かりました。 私は聖書を読み続けました。 聖書にはまって生きていました。

 それより前に私は長老教会に通っていましたが、私たちの教会の牧師も罪人であり、長老たちも罪人と言われました。 他の信者たちは、彼らに従ってすべて自ずから罪人でした。 しかし、聖書の言葉は、ある牧師の言葉や長老の言葉よりも重要です。 聖書が義と言えば私が義であり、聖書が罪が洗われたと言えば私の罪が洗われます。 

レビ記4章:27節から出てくる一般の人の贖罪の祭祀

 ヨハネの福音書第1章29節で、バプテスマのヨハネがイエス様を見て、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」と言いました。ところが、その前に「翌日ヨハネがイエスが自分に来てくださるのを見て、言われました」と言いました。 その前日に何かがあったということです。

  私は罪の赦しについてもっと正確に知りたかったです。 それで聖書を続けて読んで、レビ記4章で贖罪の祭祀に関する内容を読みました。 そこで私たちの罪が赦される道を正確に話していました。 贖罪の祭祀は4種類に分けられます。 祭司が罪を犯した時、族長が罪を犯した時、すべての会衆が罪を犯した時、そして最後に一般の人が罪を犯した時です。  4つの祭祀の供え物と祭祀の仕方は少しずつ異なりますが、ほとんどは同じです。

 私は一般の人であり、レビ記4章:27節から出てくる一般の人の贖罪の祭祀を詳しく見ました。  また、もし一般の人々のひとりが、主がするなと命じたことの一つでも行い、あやまって罪を犯し、後で咎を覚える場合、(レビ4:27-28)

 私たちが罪の赦しを受けるには、2つの条件が必要です。 罪を犯し、罪を犯したことに気づかなければなりません。 そうなれば、その時、その罪を洗わなければなりません。 しかし、罪は決して簡単に洗われません。 罪の代価は死です。 罪を洗うには、罪の代価である死を支払わなければなりません。 それで贖罪の供え物になる咎のない雌のやぎを引いて連れてこいと言います。

「または、彼が犯した罪が自分に知らされたなら、彼は犯した罪のために、そのささげ物として、傷のない雌やぎを連れて来て、」レビ記 4章28節

  続いて29節に「その罪のためのいけにえの頭に按手して」という内容が出てきます。 私はなぜやぎに按手すべきなのかわからなかった。  「牧師になったときや長老になったときに按手を受けますが、やぎはなぜ按手を受けますか?」 私はその理由を知りたかったので、聖書を探しては、また探しました。 その後、新旧約聖書を何度も読んでもやぎに按手する理由がわかりませんでした。

 そのように過ごしたある日、聖書を読んで初めてその理由を見つけました。 レビ記4章と非常に近いところにあるレビ記16章21節にその理由が記されていました。

「アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。」(レビ記 16章21節)

 ここを見ると、やぎの頭に按手して罪をやぎの頭に置くと言いました。 贖罪の供物である羊ややぎが罪を犯した人の代わりに死ぬとき、ただ死んだら何の意味もなく、まず罪を渡さなければならないということです。 罪をやぎに渡す過程がまさに按手でした。 按手で罪を渡した後やぎを殺します。 そしてその血を受けとり全焼のいけにえの祭壇の角に塗ります。

 「なぜ血を全焼のいけにえの祭壇に塗るのですか?」 そして再びその理由を探し始めました。 エレミヤ聖書を読んで,17章1節でその理由を見つけることができました。 聖書を一部分だけ見ると理解がうまくいかないのですが、聖書のいろいろな話を知れば、聖書の言葉がしっかりと合うことが不思議です。 エレミヤ17章1節に「ユダの罪は鉄の筆と金剛石のとがりで記され、彼らの心の板と彼らの祭壇の角に刻まれている。」とされています。罪が心と祭壇の角に刻まれているということです。

 神様側では、私たちの罪を全焼のいけにえの祭壇の角に記録しておき、私たちは罪を心の板に記録しておくのです。 全焼のいけにえの祭壇には四隅に角があり、そこに罪が記録されています。 罪の代価は死なので、血の流れがなければ赦しはありません。 羊ややぎが死ぬと罪が赦されます。羊を殺す前に、まず羊の頭に按手して罪を羊に渡した後、羊が死ぬことによってその罪が洗われます。 その時罪が解決されたので、罪を記録しておいたものを消去しなければなりません。 血で罪の記録を消去するのです。それを「塗抹(塗りつぶす)」といいます。

  私たちの心に記録された罪はどのように消去されますか? 信仰で消去します。血が私の罪を洗ったという事実を信じるとき、私たちの心から罪が洗われます。

見よ、世の罪を取り除く神の子羊

マタイの福音書3章を見ると、バプテスマのヨハネがイエス様を見て「見よ、世の罪を取り除く神の子羊と前日に起きたことが正確に出ています。バプテスマのヨハネはヨルダン川で悔い改めのバプテスマを授けていました。

 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

 「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。」

 多くの人々がバプテスマのヨハネに出て行き彼の話を聞いて悔い改めて、悔い改めたという意味でヨルダン川でバプテスマを受けました。

 ヨハネがバプテスマを授けているその場所にある日イエス様が来られました。イエス様はバプテスマのヨハネにバプテスマを受けようとしました。ヨハネは驚きました。イエス様は罪が無いので悔い改めのバプテスマを受ける必要がありません。ヨハネは言いました。

 「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」イエス様はヨハネに言われました。

 「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」

 イエス様は「すべての正しいこと」を成し遂げるためにバプテスマを受けられたということです。すべての正しいことを成し遂げるとはどういう話ですか?神様は義であられイエス様も義であられるが、人間である私たちは罪人です。私たちも義とならなければいけないということです。しかし、バプテスマを受けたということがどうしてすべての義を成し遂げるのですか?

  イエス様がバプテスマを受けられたことは悔い改めのバプテスマではありません。バプテスマの形式を借りたことです。イエス様はヨルダン川に入られ、

バプテスマのヨハネがイエス様の頭に按手してバプテスマを施されました。この按手はどういう意味ですか?イエス様は神の小羊です。按手によってイエス様は人間のすべての罪を負ってゆく神様の小羊になることです。私たちの罪を渡すためバプテスマのヨハネがイエス様の頭に按手してバプテスマを施されました。

 バプテスマのヨハネ祭司長の息子として祭司長の職分を持っています。旧約時代は羊ややぎの頭に按手をして罪を渡しました。イエス様は神様の小羊」でした。羊なら私たちの代わりに罪を背負って死ななければいけない贖罪のいけにえという話です。

  イエス様がバプテスマを受けて水から上がると、天から聖霊が鳩のように降りてきました。 そしてその翌日でした。 バプテスマのヨハネがイエス様を見て話します。

  その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。

私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ』と言ったのは、この方のことです。

私もこの方を知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。」

またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。」(ヨハネの福音書 1章29~32節)

  神の子羊イエス様が私たちの罪のために死ぬために、まず私たちの罪を渡そうとされました。 祭司長であるバプテスマのヨハネが按手したときに罪が渡されました。 イエス様がバプテスマを受けた後、天から聖霊が鳩のように臨みました。 そして天から声がありました。  「これは、私の愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

  イエス様が私たちの罪を洗うためにこの地に来て、33年間おられ、十字架につけられて死にました。 そのことを成し遂げる前に、私たちの罪を身代わりに負うためにバプテスマを受けました。 イエス様が十字架の苦しみを避けずに受け取ろうとするので、神様がイエス様を見て「これは、私の愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」と言われました。

しかし、主は、私たちの咎を彼に負わせた

イエスがバプテスマを受ける時、私たちの罪がイエスにすべて渡されました。それを見てバプテスマのヨハネが言います。

「見よ!世の罪を取り除く神の小羊。」

これは聖書に記録された神の御言葉です。私たちはこの御言葉を信じなければなりません。イエスは世の罪を負われました。そして後にイエスはカルバリの山で十字架に釘づけられて私たちの罪に対するすべての刑罰を受けました。

世のすべての罪が私たちにあるのではなく、イエスに渡りました。イザヤ書53章では何と言われたでしょうか。

「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)

イエスは私たちのためにむちに打たれて槍に刺し通されて十字架に釘づけられました。

「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」(イザヤ53:6)

私たちのすべての罪がイエスに渡されました。イエスが十字架に釘づけられて死なれたのはイエスに罪があったからではなく私たちの罪のせいです。イエスが十字架で死なれたことによって私たちのすべての罪が贖われました。罪が洗い流されて私たちがきよめられたのです。

ローマ人への手紙4章25節ではこう言われます。

「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」

そして第一コリント人への手紙6章10節ではこう言います。

「盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。」

こんな罪を犯した人は天の国には行けません。ところが、11節にはこのように言います。

「あなたがたの中にいる人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」

私たちは罪を犯しました。しかし私たちの罪は洗われました。私たちは聖なる者となりました。義とされました。神が私たちに義と認められたとおっしゃいました。私はこの御言葉を信じて心に受け入れました。御言葉が私の心に入り、私をすべての罪から自由にしました。ハレルヤ! その日から神と私の間を遮る罪は何もありません。

私が罪を犯していなかったからではありません。私が善良に生きたからではありません。神の恵みで、価なしにそうなったのです。何もしていないのに、私の罪がすべて洗われて義とされました。それで私は義人だと言うのです。聖書がそのように言われたからです。「あなたは罪を犯した。しかしあなたの罪は洗われた。あなたは義とされた。あなたは聖なる者となった。神が義と認めてくださったなら私は義人だ。神が聖なる者となったと言われたなら私は聖なる者なのだ。」私はこのようにして御言葉を信じ、心に受け入れました。その時からイエスが私のうちで生きて働かれたのでとても驚きました。

神が私たちを救ってくださったことがどれほど驚くべきことかわかりません。私が罪の赦しを得るためにしたことは何もありません。100%イエスが罪を洗ってくださいました。聖書にそのように記録されています。イエスが十字架で死なれたとき、私の罪をすべて洗いました。今後も私が罪を犯すことを知って永遠に洗いました。信じた時までの罪だけを洗っていたならその後の罪で私は地獄へ行きますが、ところが私は永遠の義を得ました。

御言葉を信じた日からイエスが私のうちで生きて働きました。私のしたことは御言葉を一つ受け入れたことしかありません。そして御言葉一つを信じたことしかありません。皆さんにも同様の恵みが臨むことを願います。

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